行事・日々の様子(R6)
「銅鐸の国」開催にあたって その5(最終)
12月11日(水)「銅鐸の国」開催にあたって その5(最終)
豊川市教育委員会にお勤めの前田様(前芝出身)から情報をいただき、平成19年(出土から83年)に一度里帰りしていることがわかりました。前芝地区市民館で里帰り展が開催されるまでの経緯が東愛知新聞に掲載されていました。その記事の一部を抜粋して紹介させていただきます。
【伊奈銅鐸里帰り展 於:前芝地区市民館】
今週、ついに伊奈銅鐸の里帰りが実現。大正時代に小坂井村で伊奈で発見、東京国立博物館に収蔵されている銅鐸3点が、初めて〝一時帰郷″する。前芝地区市民館で(平成19年)10月11日から16日、自治会関係者らが「伊奈銅鐸里帰り展」を開き、83年ぶりに地元披露される。
(中略)
発見から約1年後、26年2月に国が購入し、東京国立博物館で展示されてきた。
里帰りを実現させた中心人物は、元前芝校区総代会長の林矩道さん(75)。父から発見当時の話を聞いて興味をふくらませ、「いつか銅鐸を戻したい」と夢を持ち続けた。85年に総代会長になった時、この話を専門家に持ちかけたが、「できるわけない」と一蹴された。
しかし、林さんは、「われわれの世代が銅鐸のことを伝えなければ、いつか忘れ去られてしまう」と決意。豊橋美術博物館の学芸員に協力を求め、昨年(平成18年)12月に国立博物館を訪ねて直談判した。美術品運搬にかかる100万円があれば、実現することがわかり、今年(平成19年)4月に自治会長ら20人が里帰り推進委員会を発足。地元有志から資金を集め、実現にこぎつけることになった。(後略)<2007年(平成19年)9月8日の「東愛知新聞」より>
今回開場式に参加し、前芝出身の前田様にお話を伺えたことで、前芝に一度里帰りしていることを初めて知りました。しかもそれが地元のかたがたの強い熱意があって実現したことであるという事実に、前芝を思う気持ちの強さを感じました。今回の銅鐸鑑賞を通して、生徒たちが地元前芝に誇りをもち、小中一貫校「前芝学校」の15歳の春の目ざす姿である「ふるさと前芝を愛する」気持ちを高めてくれたらうれしいです。
1・2年生は体育の授業で持久走をがんばっています。
12月12日(木)今、1・2年生の体育では、持久走を行っています。「スピードの感覚をつかむこと」「常に自分を超えていくこと」の2つを意識しながら、1周目の記録を2周目で超し、さらに2周目の記録を3周目で超すというようにスピードアップ形式で頑張っています。
持久走は、体力も大事ですが、自分自身との戦いの競技でもあります。1年生も2年生も授業を重ねる中で、一人一人が自分を追い込みながら、限界を突破していく姿が見られるようになったそうです。
12月11日(水)の2年生の授業では、すでに自分が1周を何秒くらいで走れているのか感覚でつかめている生徒もいて感心しました。きっと、持久走が苦手な生徒もたくさんいると思いますが、苦しくてもがんばって走る姿にはやはり心を動かされますね。
2年生の持久走の授業は、残り4時間だそうです。最後のタイムトライアルに向けて、自分自身の弱い部分と向き合いながら一生懸命頑張る生徒にエールを送りたいと思います。
今日は、2年生の持久走の授業の写真です。
「銅鐸の国」開催にあたって その4
12月10日(火)「銅鐸の国」開催にあたって その4
【伊奈銅鐸のこれから】
伊奈銅鐸出土地は「伊奈遺跡」と呼ばれているが、ここでは銅鐸が発見されただけではなかった。出土地点の南にはハマグリの貝層があり、周囲では弥生土器の壺や高坏、ふたなどと、石斧が拾われている。この弥生土器の一部は豊田氏から京都大学に贈られて、現在は同大総合博物館にある。また、驚くなかれ、銅鐸から東へ約15mのところで手足を折り曲げて葬られていた「人骨」が発見されていたので。これを調査された東京帝国大学人類学教室の宮坂先生によると、この骨は12、3歳の子供であるとのこと。ただ、弥生時代の人であるかは残念ながら分かっていない。
銅鐸は、加茂岩倉遺跡(島根県にある銅鐸39個が大量確認された遺跡)でもそうであるように、ほとんどが銅鐸しか出てこない。しかし、ここ伊奈遺跡では、確かに弥生時代の人々が生活していたのだという証があった。ただ、だからといって、どうしてここに銅鐸がしかも3個も埋められたのか、いまだ謎のままである。目の前には三河湾の海が広がっている。あなたにはこの謎が解けるだろうか。<1997年(平成9年)発行の「穂の国小坂井町かわら版」第6号より> 「銅鐸の国」開催にあたって その5に続く
家庭科で調理実習を行いました。(2年生)
12月11日(水)今日は、2年生が家庭科の時間に本年度2回目の調理実習を行いました。メニューは、魚のムニエルと付け合わせのソテーです。
まずは、魚料理をした経験のある生徒が半数近くいて驚きました。その甲斐もあり、どのグループも手際よく、そして楽しそうに調理を進めていました。油を多く引きすぎたり、調味料を多く混ぜてしまったりした生徒もいましたが、とびきりおいしいムニエルとソテーができあがりました。また、盛り付けにもこだわり、見た目からもおいしさが伝わってきました。やっぱり自分で作った料理の味は格別!大満足の2時間でした。
今度はぜひ、冬休みに家でムニエルとソテーを作って、おうちの人のおなかと心を満たしてあげてくださいね!
保護者の皆様におかれましては、材料の準備等で大変お世話になりました。しっかり準備をしてくださったおかげで、どの生徒にとっても充実した調理実習になりました。ありがとうございました。
総合的な学習の時間に、職場体験学習のまとめの発表会を行いました。(2年生)
12月9日(月)に、2年生が総合的な学習の時間に、職場体験学習のまとめの発表会を行いました。今の2年生は、1年生の時からパワーポイントを上手に使いこなすことができていました。それは、小学校の時にタブレットを授業等でよく使っていたからです。自分の伝えたい思いが聞き手に伝わるように、写真だけでなく、文字の大きさや色、背景、アニメーションなどを工夫して作成していました。全員が教室の後ろまで聞こえる声で発表することができていました。なかには、原稿(画面)を見ないで顔を上げて聞き手に話しかけるように発表したり、クイズを出して聞き手をひきつけたり、おもしろエピソードを話したりするなど、楽しく発表を聞くことができました。
あと3人の発表がありますが、その様子は後日お知らせさせていただきます。
「銅鐸の国」開催にあたって その3
「銅鐸の国」開催にあたって その3
【銅鐸発見地の状況】
銅鐸が発見された場所には昭和24年に前芝中学校校舎が建設され、当時の面影はみじんもない。銅鐸出土地点は現在の校舎のわずか南で、植え込みとなっているところである。この前芝中学校の周辺は今は塩見という字名ではあるが、昭和27年度の耕地整理事業完了前は字「塩見塚」と呼ばれていた。中学校の西150mにある前芝共同墓地の場所には、かつてその名の起こりとなったと思われる「塚」があったそうだ。字塩見塚と字松間の畑は、かつては一帯の砂丘で、微地形分類上でも「砂レキ洲」となっている。発見当時以前には所々に小さい砂山が残っていたという。<1997年(平成9年)発行の「穂の国小坂井町かわら版」第6号より> 「銅鐸の国」開催にあたって その4に続く
12月6日(金)「銅鐸の国」開催にあたって その2
12月6日(金)「銅鐸の国」開催にあたって その2
【銅鐸発見後の村の様子から銅鐸が買い上げられるまで】
銅鐸が発見されたことが村中に知れ渡ると、付近からの見物がひっきりなしの状況になった。また、どこからか銅鐸発見の権利を買い取りに道具屋(骨董屋)が来たという記録もある。新聞報道や豊橋市在住の豊田伊三美(珍彦)氏(豊橋趣味會会員・豊橋市編纂委員)の働きかけによって、年が明けた1月15日には元京都帝国大学教授の喜田貞吉博士(法隆寺再建論者として有名)が現地調査に訪れている。博士の調査の結果、横里富三郎さんに銅鐸を掘り出した状態で現地に据えつけてもらい、あの有名な写真(横里さんの前に3つの銅鐸が土の中から見つかった状態を写した写真:豊橋美術博物館にもその写真が展示されています)を撮影した。この11日後の26日には、京都帝大の梅原末治氏と東京帝室博物館の後藤守一氏が続いて来訪された。そして、大正15年2月7日、3個の銅鐸は1,200円(大正11年当時、お米10㎏が3円21銭、ビール大瓶1本45銭)で買い上げられ、東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)に納められている。<1997年(平成9年)発行の「穂の国小坂井町かわら版」第6号より> 「銅鐸の国」開催にあたって その3に続く
【横里さんが銅鐸を掘り出した様子を再現したときの写真】
久しぶりに青空のもと、あいさつ運動を行いました。
12月6日(金)久しぶりに毎週のあいさつ運動が青空のもと行われました。校門の両側に立ち、小中学生が登校する両側であいさつをしている光景は毎回いいなあと思いますが、それが青空だと200%増しで素敵な光景になります。前芝の子どもたちがつくり上げてくれたすばらしい伝統です!
「銅鐸の国 伊奈銅鐸出土100年」開催にあたって その1
12月5日(木)「銅鐸の国」開催にあたって その1
豊川市教育委員会にお勤めの前田様より貴重な情報を提供していただきました。1997年(平成9年)発行の「穂の国小坂井町かわら版」第6号のコピーです。せっかくなので、生徒や保護者の皆さま、地域の皆さまにも共有したいと思い、HPで随時発信していきたいと思います。
【銅鐸発見時の様子】
今から100年前の大正13年12月22日(月)、雲一つない快晴。宝飯郡前芝村の横里富三郎さん(当時24歳)が近所の北河馨さん(あるいは親の横里豊平さん)とともに朝から小坂井村大字伊奈字松間171番地の麦畑へ大八車を引いて土砂の採掘に出かけていた。作業を始めてしばらくたった午前8時から8時半頃、横里さんが振るう鍬の先が「カチリ」と音を立てたので、そこを掘ると、地面から80cmほど下に青色の金属が砂の中から現れ、これを掘り出してみると、高さ74cmの釣鐘の形をしたものが出てきた。お昼をはさんで、午後1時前後には前芝村の林豊治さんも畑の耕作土をはねるために居合わせ、さらに北に30cm2離れたところで2個(ともに高さ80cm)見つかった。その日は3人でこの銅鐸を林さんの家へ持ち帰ることにした。<1997年(平成9年)発行の「穂の国小坂井町かわら版」第6号より> 「銅鐸の国」開催にあたって その2に続く
くしくも、この銅鐸が発見された12月22日ではないですが、およそ100年後の12月19日(木)に前芝中学校の全校生徒がその銅鐸を見学に行きます。100年前の出来事に思いを馳せながら、3つ並べられた銅鐸に何を感じてくれるのか楽しみです。
「本love推進キャンペーン」で、2年1組がどうたくんタイムに図書室へ行きました。
12月5日(木)今日は、図書委員会が企画した「本love推進キャンペーン」で、2年1組がどうたくんタイムに図書室へ行き、読書をする時間をとりました。自分の読みたい本をじっくり探す姿が印象的でした。自分の趣味の本、修学旅行で行く東京の本、好きな作家の小説など、思い思いの本を手に取り、座席に着いた後は、日々の2年生の集中力を発揮し、静かな読書タイムが始まりました。